2005年10月24日

ちょっと考えてみる。

 中国は最近になって、靖国神社参拝における最大の問題は、いわゆるA級戦犯合祀であると主張し始めている。その主張に沿う形で国内の各方面からA級戦犯を分祀せよ、という声が出ていた。大朝日新聞社さまがたきつけて(これは小林やすのりの靖国論に経緯が詳しく乗っているので、そのうち引用します)特定アジアを巻き込んだ大問題になってしまった首相の靖国参拝だが、大朝日新聞社さまに焚きつけられた中国としては、振り上げた拳の落としどころとして分祀という概念は好都合だったのだろう。また、それはGHQが戦後日本で行った「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(太平洋戦争を起こした日本は悪いという洗脳。大規模に戦後日本で行われたが、これは江藤淳の閉ざされた言語空間に詳しいので詳細は後日引用して説明します)」とぴったりとマッチする。つまりそれは、軍国主義者(いわゆるA級戦犯)と国民の乖離を意図しており、そうすることで、戦争の責任を軍国主義者に押し付け、ハル・ノートを突きつけたアメリカは、先の大戦の当事者としての責任を逃れようとする思想だった。中国は日本の戦争責任に対する厳然な態度と、それさえ明確に決着をつけさえすれば慰霊の形に問題はない、とする寛容さを見せることで大国としての威厳を示し、さらには日本に政治的な影響力を行使することで立場の違いをわからせる、という効果が見込まれるわけだ。

 だから中国はA級戦犯の分祀にこだわり、靖国参拝問題における最良の解決策として、ここを突破口としようとしているのである。ところがこれはまったく神道の概念からは受け入れられないものである。分祀とは、靖国神社の祭神としてのA級戦犯を、靖国神社から切り離し、ほかの神社へと移すという行為(カット&ペースト)をさすのではなく、靖国神社に英霊として祭られたいわゆるA級戦犯の分身を作り、それを他の神社に移す(コピー&ペースト)、という概念なのである。

 そうした用語の間違いを理解できない人間が、そもそも分祀などという概念を持ち出すことが間違っていたわけで、それを主張した政治家も、またそうした政治化の尻馬に乗った中国も浅はかだった。最近では、10月23日付け日経新聞で分祀を主張するコラム(風見鶏・名前からして軽薄だが)が編集委員・安藤俊裕氏の署名原稿として掲載されていたが、頭悪すぎる。

 そもそもA級戦犯という概念もおかしなものである。日本はポツダム宣言を受諾し、「全日本国軍の無条件武装解除」という条件は受諾したものの、それ以外の条件については、ポツダム宣言に明記されたものを戦勝国たる連合国と、敗戦国たる日本国が遵守するという条約に批准しているのである。その事実は米国務省も理解しており「受諾されれば国際法の一般規範によって解釈されるべき国際協定となる」はずであり、「国際協定」である以上それは当然「双務的」拘束力を有するとした覚書を「一九四五年七月二十六日の宣言と国務省の政策との比較検討」という題名で米国務省が作っている。

 メディアは日本が無条件降伏をしたと普通に口にしているが、その空っぽの脳みそをフル回転させてポツダム宣言を読んで頂ければ幸いである。

 ちなみに戦後、同じように戦犯法廷が開かれたドイツの場合は、国際法上は国家そのものがなくなったという状況だった。詳細は以下に引用しておく。


閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本 江藤 淳 文春文庫より一部引用。p140

 このころまでに、ドイツは無条件降伏していた。ドイツ全土は連合国軍に蹂躙され、総統は死し、他の政府要人は自殺するか国外に逃亡し、壊滅したナチス政府に代る中央政府は生れず、第三帝国は完全な無政府状態のうちに崩壊したのである。


 五月七日、ドイツ海軍最高司令官デーニッツ提督の特使ヨードル上級大将が、ライムスで連合国派遣軍最高司令官アイゼンハウアーと会見し、ドイツ軍の全面降伏予備議定書に調印した。翌八日には、カルルスホルストで正式調印が行われたが、これは要するに軍隊の降伏を定めた調印にすぎなかった。ドイツ国家そのものは、完全に連合国に征服されて、この地上から消え去ったのであった。
 これを受けて日本政府は、五月十五日、防共協定と日独伊三国条約を含む一切の日独間の取極の廃棄を行った。


 いずれにしても、占領下で一方的に行われた東京裁判によってA級戦犯という言葉は定義づけられたわけだが、そもそも東京裁判が法廷としての資格を持たないということは、現在の法律界が広く共有する概念である。もし東京裁判が法律学的に有効という学説があるならば一度読ませてほしい。どのような詭弁を使ってもそれは公正な法の適用にはまったく合致しない。また、A級戦犯という概念がかなり誤って伝えられているのだが、A級という言葉は「罪の等級」を表すわけではないということはもっと伝える必要があるのではないだろうか。

 ところで戦争指導者としての追求を受けて、刑死した東條元首相だが、彼は独立国に与えられた権利の一つとしての外交権と、それに付随する形での交戦権を行使しただけであり、太平洋戦争そのものが「悪い戦争」だった訳ではないと昭和二十二年(一九四七)十二月十九日に東京裁判の法廷に提出された「東條口供書」で主張している。当然のことだろう。全ての戦争が悪いのであれば太平洋戦争の当事者たる聯合国も何らかの罪を謝罪しなければならないし、最近では大量破壊兵器の保有を口実にイラクに対して先制攻撃を行い、国土を占領したアメリカに対しても、平和に対する罪によって罰せられる法廷が開かれなければならない。しかしそうではないのは、彼らが戦争を、広義であるにせよ狭義にあるにせよ、自衛の為に行ったと主張するからである。そして東條元首相も同じようにそう弁明した。当然のことである。アメリカのかたくなな態度によって日本は戦争を決断せざるを得なかったからである。しかし日本は敗戦し、占領軍に占領され、その期間中に法廷が開かれ、A級戦犯に対する処刑が実行された。

 そうした事態に直面した日本の態度は、東京裁判の判決には従うというものであり、それは言外に法廷の正当性については同意していない、という意味をこめたものとなっているのである。戦後、東京裁判を巡る日本の態度を証明する動きがあった。ぷちしちくじの03年1月23日版の「おっしゃるとおりで」で引用した「参考ページ」という部分である。当時の日本は東京裁判に縛られることなく、自分たちの責任でいわゆる戦犯を免罪しているのである。そしてその動きに対し特定アジアは何一つ口を挟んでいないのである。当然だ。大朝日新聞社さまは何の異議も唱えていないからだ。同時、戦犯の早期釈放を願う署名は全国で4000万人にも上っていた。それは祖父母の世代の意識を間接的に明らかにしている。ただ、そうした祖父母の意識は完全に現代においては断絶され、祖父母の世代の罪を問う論調ばかりが目立つ。そもそも靖国問題は、何度でも言い続けるが大朝日新聞さまが引き起こした一大報道被害なのである。

 ちなみに自らの戦争犯罪を否定した東條元首相の「東條口供書」にはこんな一文がある事を明記しておこう。


 第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任である。この意味における責任は私はこれを受諾するのみならず、衷心より進んでこれを負荷せんことを希望するものである


 彼は日本国をして、敗戦国とした戦争を指導した責任に対して、国民からは逃げていないのである。

 ただ、靖国神社を巡る騒動やそれらを伝えた報道の結果、BBCやAFPなど海外のメディアでは、靖国神社は「War shrine(戦争神社)」などという不名誉な名前を与えられて報道されており、本来ある神社の性質からはかけ離れた印象の報道がまかり通っている。こうした報道被害が日本にどれだけの損害を与えるのか、報道機関は自覚すべきだ。

 中国の頭の悪さ(ところがこれは国際社会においては頭の良さに変わったりするからややこしいのだが)は使えそうなカードを何でも使おう、という野蛮さにある。日本と中国は国交を回復した際に、多大な犠牲を強いた先の大戦における諸問題を解決しており、いまここで条約締結以前の戦争についてあれこれ言われる筋合いはない。もしここで中国が国交回復以前の戦争についてとやかく言うのであれば、それは国際法を理解できない野蛮国のなすことだとのそしりを免れず、またそうした主張を中国に進言し、煽る国内の新聞社の頭の悪さを改めて全世界に知らしめているだけである。しかし現実にそうした言動はいまだに日中間に緊張をもたらし、報道機関はこぞってその緊張を伝えようとしている。いずれにしても、いまだに中国は先の大戦についてたらたらと文句を言い連ねているその態度がどれだけ日本人の国民感情を害しているのか、もっと理解したほうがいいだろう。また、靖国問題をことさら問題として報道する報道機関も、どれだけ国民からウザがられているのかを理解すべきだろう。

 なぜか日本国内のジャーナリストやマスメディアは中国におもねる発言が多い。

「経済は過熱しているのだから政治も近づくべきだ」

 ホントにバカげた主張だろう。ところがこう公言するバカジャーナリストは非常に多い。そもそも政治情勢に関係なく経済が交流を深めているのであればそれでいいのではないか。では、中国が日本との経済交流をストップできるのか。そういう事を考えれば、それこそ今の中国人の態度は彼らの二面性、つまりナイフを片手に交渉する、という国民性を端的に表しているとしか思えないのである。なにも経済交流が拡大を続ける中、日本から譲歩して近づく必要などないわけである。本当に日本のマスコミがやっていることは意味が分からん。

何度でも書くが言論がマスメディアの特権だった時代は徐々に過ぎつつある。いまやインターネットがあらゆる言論を格安で日本中に広めている。そうした時代の流れをもっと意識し、自分の足元を見つめ直す必要があるだろう。マスメディアはまさに裸の王様状態なのである。その自覚すらないマスメディアのなす言論は、市井の一国民に完全に見下されているのである。

 日本語を媒介として、媒体の主張を伝える最大の手段としている報道機関よ、目を覚ませ。あなた方がよって立つべきは日本国であり日本国民であり、この日本の文化なのである。

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